描かれざる『アオイホノオ』たち 《南河内のラピュタ》を飛びたった大阪芸大出身漫画家の系譜 –後編–

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3)90年代 異才たちの活躍

 さて、前回は島本和彦の『アオイホノオ』で描かれた80年代までの大阪芸大の漫画家たちについて書きましたが、今回は「『アオイホノオ』その後」の物語です。

前編はこちら。

90年代の大阪芸大出身漫画家は多士済々、しかしメジャー志向の作家ではなく、個性的でエキセントリックな「異才」あるいは「鬼才」と呼ぶべき作家、いわば「芸大らしい」作家が多いような印象を受けます。
この時期の出身者の代表的な漫画家を挙げてみましょう。
叙情的な作風で、印象的にバイクが登場する漫画を描く、きらたかし。

赤灯えれじい
©きらたかし/講談社
ハイポジ
©きらたかし/双葉社

デザイナー、アーティストとしても活躍する長尾謙一郎、

おしゃれ手帖
©長尾謙一郎/小学館
ギャラクシー銀座
©長尾謙一郎/小学館
PUNK
©長尾謙一郎

成人漫画でデビューし、一般の雑誌にも活躍の場を広げている山田参助。

ニッポン夜枕ばなし
©山田参助/リイド社

もちろん、アーティスティックな漫画家だけでなく、メジャー誌で活躍する漫画家も在籍していました。少年チャンピオンで『囚人リク』を連載した瀬口忍。

囚人リク
©瀬口忍(秋田書店)

90年代の「グループCAS」出身者としては、『それでも町は廻っている』の石黒正数や、

それでも町は廻っている
©石黒正数 / 少年画報社

少年サンデーで大ヒットし、アニメ化もされた『ハヤテのごとく』の畑健二郎

ハヤテのごとく!
©畑健二郎/小学館
それが声優!
©あさのますみ/畑健二郎/小学館

らがいました。
石黒は、アニメーター・イラストレーター・漫画家の佐藤利幸や、「ASIAN KUNG-FU GENERATION」のジャケットイラストや『四畳半神話大系』のキャラクターデザインなどでも有名なイラストレーターの中村佑介とも交流があったそうです。中村は、大阪芸大発行の漫画雑誌「大学漫画」で漫画を掲載していたこともあり、今回の大芸大出身「漫画家」の一人と数えることも可能かもしれません。
また、つながりということでいえば、先述の長尾謙一郎は、同じく大芸大出身の映画監督・山下敦弘と一緒に仕事をしていたりもします。放送学科と映像学科と、出身学科は違うのですが、芸大という《場》は在学中から学科を越えたコラボレーションが可能であり、卒業後もコラボなどでつながれるというのも、芸大という《場》の強みかもしれません。
ちなみに、この山下敦弘の他にも、90年代の大阪芸大は、映画・映像の世界の才能を、数多く生み出しています。
この時期、映画監督の熊切和嘉、山下敦弘、脚本家の向井康介、宇治田隆、カメラの近藤龍人らが登場し、現在の日本映画界に欠かせないクリエイターとなっていますが、元々は先輩だった熊切和嘉の卒業制作『鬼畜大宴会』という映画に集ったチームだったそうです。
ある一人の突出した才能が発揮されるとき、周囲にいてそれを目の当たりにした人間や、それを手伝った人間も、一緒に引き上げられていく。あるいは、その動きを見て「自分にもできるはず」と、ライバルものし上がっていく。切磋琢磨の《場》の存在には、そのような効能もあるのでしょう。
90年代の「グループCAS」からも多くの漫画家がデビューしていることからも、やはり切磋琢磨し、影響を受け合う《場》の存在というものの重要さが伺えます。

4)2000年代 大学版・劇画村塾「小池ゼミ」の登場

 2000年、大阪芸大は、先ごろ亡なった漫画原作者・小池一夫を招聘し、本格的に漫画教育に着手することになります。
まずは、映像学科の教授の一人として、漫画を教えるカリキュラムを一人で開始します。
一人で彼が教えたのは「漫画の描き方」ではありませんでした。
漫画原作者である彼が教えたのは「いかにして面白い作品を作るか」というメソッド。
かつて彼が「劇画村塾」で教えた「キャラクターの起(た)て方」「キャラクターの創り方、動かし方、活かし方」を、大学の中で教えようとしたのです。
「劇画村塾」とは、かつて小池が主宰し、『うる星やつら』『めぞん一刻』の高橋留美子、『北斗の拳』の原哲夫、『バキ』の板垣恵介、『シグルイ』の山口貴由、『桃太郎電鉄』のさくまあきら、『ドラゴンクエスト』の堀井雄二……と、いちいち出身者を列挙するだけでも数ページを要する、伝説のクリエイターを輩出した「漫画家養成のための私塾」です。そこで教えた創作論を大学用にブラッシュアップしたものを、カリキュラムの中で行ったのでした。
『アオイホノオ』の中では、高橋留美子の華々しいデビューに主人公がショックを受けるシーンが描かれますが、実は東京にも漫画家を目指す若者たちの修行場「劇画村塾」があり、そこでも漫画家を目指す若者たちによる、数々のドラマがあったということでしょう。この「劇画村塾物語」も、東の『アオイホノオ』として、誰かの手によって、いつの日か描かれることになるかもしれません。
その「劇画村塾」が大阪芸大にやってきたと考えれば、まことに数奇な運命ともいえるでしょう。
小池ゼミでは、1年目では大教室の数百人の学生が「キャラクターの重要さ、魅力」を叩き込まれ、そして、その中から課題によって選抜された30人程度が、2年目より、大学版劇画村塾というべき「小池ゼミ」に入る形でした。
これも「劇画村塾」のシステムを踏襲したもので、泊まり込みで寝食を惜しんで作品制作に没頭する「合宿」システムなども「村塾」同様に行われました。
「小池ゼミ」は、小池が所属した映像学科や文芸学科のカリキュラムの中で行われ、面白い漫画、売れる作品の創り方のコツを叩き込まれる反面、劇画村塾同様に、「絵」の指導はあまり行われず、それぞれが独修するに任されていました。
この小池ゼミの出身者としては、少年ジャンプで『ぬらりひょんの孫』を連載した椎橋寛、

ぬらりひょんの孫 モノクロ版
©椎橋寛/集英社
ILLEGAL RARE
©椎橋寛/集英社
神緒ゆいは髪を結い
©椎橋寛/集英社

カプコンで『デビルメイクライ』シリーズのシナリオを担当、後に漫画原作者や小説家となった森橋ビンゴ(中川トシヒロ)、

ナナヲチートイツ 紅龍
©前川かずお・森橋ビンゴ/竹書房
脱衣転生
©井上紀良/中川トシヒロ/竹書房

少年サンデーで『怪体真書φ』を連載、その後各社で活躍する険持ちよ、

空のカイン
©険持ちよ/講談社
怪体真書φ
©険持ちよ/小学館
海咲ライラック
©険持ちよ/竹書房

アニメ化もされた『うどんの国の金色毛鞠』の篠丸のどか、

うどんの国の金色毛鞠
©篠丸のどか/新潮社
花と黒鋼
©Nodoka Shinomaru/講談社

スピリッツで『ぽんこつポン子』を連載中の矢寺圭太らがいます。

ぽんこつポン子
©矢寺圭太/小学館

なお、この時期には、漫画・アニメ研究会である「グループCAS」とは別に、より意識的に漫画家デビューを目指すための漫画サークルとして「鉄漫」が小池ゼミ生によって結成されており、矢寺はここの出身ですが、これも小池の「メジャーで売れなければ意味がない」という考え方の影響によるものでしょう。

5)2005年「キャラクター造形学科」の設立

小池の赴任より5年後の2005年、大阪芸大に「漫画」「アニメ」「ゲーム」のクリエイターを育成する新学科『キャラクター造形学科』が開講されます。
設立に尽力した小池は学科長に就任、他に現学科長の里中満智子、永井豪、バロン吉元、池上遼一といった漫画家が教授に招かれ、漫画の他にもアニメ、ゲームの3コースについての専門教育が始まりました。(のちに海洋堂を招いてフィギュアコースも開設)。
この学科の特徴は先行する漫画カリキュラムを持つ大学とは異なり、「研究者」を育てるのではなく、あくまでプロとして通用する「クリエイター」を育成することを目的としていました。カリキュラムでは「小池ゼミ」で教えられていた「キャラクター原論」に加えて、それまでもっぱら自修にまかされていた、「技法」をも、教授する体制が整うことになります。
 キャラクター造形学科の出身漫画家としては、「チャンピオン」で『魔法少女オブジエンド』をヒットさせた佐藤健太郎、

魔法少女・オブ・ジ・エンド
©佐藤健太郎(秋田書店)
魔法少女サイト
©佐藤健太郎(秋田書店)

「マガジン」で『寄宿学校のジュリエット』をヒットさせた金田陽介、

星天高校アイドル部!
©金田陽介/講談社
寄宿学校のジュリエット
©金田陽介/講談社

「ゲッサン」でデビューした鳴海アミヤ、

No.1海童
©鳴海アミヤ/小学館
ムスコンっ!
©鳴海アミヤ/マッグガーデン

はともに一期生で、特に目立った活躍しています。
さらに、週刊少年ジャンプで連載された『食戟のソーマ』の佐伯俊(作画)、附田祐斗(原作)は、2人揃って同学科出身。

食戟のソーマ
©附田祐斗・佐伯俊/集英社

ほかにも『Im~イム~』の森下真など、大芸大キャラクター造形学科で本格的な漫画教育が始まってから、数年で多くの人気漫画家を輩出。現在も里中満智子学科長の指導のもと、その快進撃は続いています。

6)《終わりなき日常》の続く場所

これまで、大阪芸大出身の漫画家の系譜をたどってきました。
どの時代も、「漫画家になりたい」という夢を抱いた人は数多くいたと思いますが、その中からプロの世界に羽ばたくことができた人はごく一部で、大部分は、どこかのタイミングで、夢を断念せざるをえなかったことでしょう。
本稿では『アオイホノオ』の舞台となった大阪芸大の出身漫画家の系譜を紹介しましたが、「ここに行けば必ず漫画家になれる」とか、「ここに来たから漫画家になれたんだ」ということではありません。また、数多ある漫画を教える学校と比べて、この学校が優れているとか劣っているとかいうことでもありません。
漫画家になった人の中でも、入学前からすごい才能を持っていた人もいたでしょうし、大学を離れて別のところで修行して、そこで才能が伸びた人も多いのだと思います。

ただ、そこにそういう《場》があったということだけは間違いないんだと思います。
『アオイホノオ』で描かれたように、同じ夢を見る者、同じ志を抱く者が集う《場》があり、そのことが、彼らの多くに少なからず夢に近づくための何らかの要素、たとえばライバルや仲間、モチベーションやチャンス……そういった何かを与えたということは、おそらく間違いないのではないか、と思うのです。
それまでは、「創作をしている」ということだけで珍しがられたり、あるいは白眼視されたりしていたのに、その《場》に来たら、「1」を話せば「10」理解され、「10」の意見をぶつければ「20」で返ってくる。
 自分より優れた才能を持つ者や、自分よりも努力している者の姿を目の当たりにしたり、思いっきり才能と才能をぶつけあうことができる。ときにライバルとして刺激を与え合い、また協力しあうことによって、互いのレベルを引き上げ合う、そんな《場》。
 ホノオ・モユルが過ごした「大作家芸大」は、そんな《場》でした。来る日も来る日も、学生たちは閉鎖的な環境の中で、作品を作り、あるいは作れずに悶え苦しみ続ける。
 それは、まるでアニメ映画「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」(高橋留美子原作、押井守監督)で描かれた「毎日毎日、学園祭の前日が続く、終わらない夢」の世界のようでもあります。
ただ、それはどこかの芸術大学の教授が「そんな甘い夢のような《終わりなき日常》から早く足を洗って大人になれ」と主張したような、類いのものではありません。
クリエイターにとっての「終わりなき日常」は、ただ甘美で怠惰な日々なのではなく、今日も、明日も、明後日も、もがき苦しみ、狂おしく叫び、ぶつかりあいながら、いつか来るべき「ハレ」の日にむかって、創り続ける日々なのです。――そう、『アオイホノオ』の主人公、ホノオ・モユルのように。
そして、今も。《南河内のラピュタ》――大阪と奈良の境にある田園地帯の、小高い山の上にある大阪芸大のキャンパスのあちこちでは、クリエイターの卵たちが、仲間やライバルたちと騒いだり、励まし合ったり、罵り合ったりしながら「ものづくり」に没頭する、『アオイホノオ』そのままの光景が、今もなお繰り広げられているのです。
何度も何度も、失敗を繰り返し、自分の作品の出来の悪さに失望し、破り捨て、壊し、また新たに作り直す……。
あるいは、作っても作っても、目指す目標へは遠ざかるばかり、という無間地獄にも似たイメージは、そういう《場》を「卒業」してプロのクリエイターになったとしてもなお、やはり悪夢に見るような、クリエイターの心の原風景のようなものかもしれません。

その先の見えない戦いの「終わりなき日常」を戦い抜き、夢を掴めるかは、結局のところ、その人次第なのでしょう。
しかし、多くのクリエイターにとって、同じ夢を抱く仲間やライバルが集まる《場》の存在が重要なものであること。
そういうことを教えてくれるのが、『アオイホノオ』という作品であるのだと思います。