漱石、鴎外、啄木……「文豪」たちのダメっぷりを堪能する!? 『坊っちゃんの時代』

レビュー

「文学者のキャラクターが登場する漫画」というと、イケメンキャラ化した「文豪」たちのバトル漫画『文豪ストレイドッグス』を思い浮かべる方も多いかもしれない。
『文スト』のキャラクターは、実在した文豪の名前とイメージを借りて新たに発想された、作家その人とは全く別のキャラクターだけれど、そこから文豪本人や、その作品に興味を持ち、作品を読み始めるきっかけとなる人もいるだろう。
だけど……実際、たとえば明治時代に書かれた小説をいきなり読もうとしたら、ちょっと手に負えないかもしれない。
そんなときには、実在した「文豪」の生涯を描いた「文豪漫画」をオススメしたい。

「文豪漫画」といえば、まずはなにを置いてもこちらだろう。

坊っちゃんの時代
©関川夏央/谷口ジロー/双葉社

文芸評論家の関川夏央が原作を担当し、谷口ジローが作画を担当した『坊っちゃんの時代』シリーズだ。

全巻通しての主人公は一応、夏目漱石だが、巻ごとに森鴎外、石川啄木、幸徳秋水など、明治を生きた文学者の等身大の生活を、リアルに、淡々と、時には大胆に潤色しながら、全5巻にわたって描いていく。
研究者でもある関川夏央の緻密な考証をしつつも、記録に残っていないところ、わかっていない史実の空白を最大限に活用して、「もしかしたら、あったかもしれない」という文学者同士の出会いやすれ違い、事件ややりとりを描いていく。
谷口ジローの描く明治の風景は緻密だが、どこか夢の中のようにファンタジックでもあり、それがこの「虚々実々」の物語には非常に合っていると思う。

本作の主人公たちの多くは「困った人」である。
たとえば、夏目漱石は、一般的には「千円札になっているくらいの《偉人》」「『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』、『こゝろ』などを書いた大文豪」といったイメージだろう。

でも、本作に登場する夏目漱石は、非常に「困った人」だ。
気難しく、癇癪持ちで、ウジウジして、いつもお腹が痛い。ややこしくて、めんどくさい人。
決して聖人君子ではなく、偉人でもない。
ただ、悩み、苦しみ、書き、時には周りに迷惑をかけても、やっぱり生きていく、そんな「生活者」としての夏目漱石を、彼の生きた明治の時代の空気の中で丹念に描いていく。

1893年(明治26年)にイギリスに留学した漱石は、劣等感から心を病んでしまう。
「最も不愉快の二年なり」(「文学論」)と漱石自身が言っているように、誰もが羨む英国のロンドンでの留学生活は、彼にとっては苦しみに満ちたものであった。
「余は英国紳士の間にあって狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり」(「文学論」)
極東の島国からの留学生は、西洋人から歯牙にもかけられず、それまでエリートであった自尊心をズタズタにしてしまった。
ロンドンのアパートメントに引きこもり、「夏目は発狂した」という情報が流れたほどだった。

第1巻『坊っちゃんの時代』では、そのロンドンから戻った漱石が、大学の教員として働き、体をいといながら、漱石山房に集った弟子たちとふれあい、やがて一匹の黒猫と出会うことで最初の小説を書き始める様子が描かれていく。

その姿には威厳もないし、格好良くもない。「ダメダメ」な姿だけれど、そこに読者は人間・漱石を見ることになる。

第2巻『秋の舞姫』の「ダメダメな人」は森 林太郎《鴎外》だ。

坊っちゃんの時代
©関川夏央/谷口ジロー/双葉社

ドイツ留学の時に恋に落ち、結婚を約束した女性エリーゼ《エリス》。だが帰国した鴎外は、家や周囲の猛反対を受け、エリスを捨てる。
一方のエリスは、便りをよこさない鴎外にしびれを切らせ、単身日本へやってくる。
文学者でありながら、医者であり、軍の偉い人である鴎外は、大義や体制、体面、功利などの理由で割り切り、「やむにやまれず」《情》を切り捨てる。そして、その言い訳を「文学」というファンタジーの中で「美しく」描き出す。さらには、鴎外自身がそれで「禊ぎ」や「罪滅ぼし」が済んだと思い込んでしまう。
リアルでは、情のない非道い人だといわれても仕方がないだろう。

個人的には、私は石川 一《啄木》を主人公にした第3巻『かの蒼空に』が一番好きだ。

坊っちゃんの時代
©関川夏央/谷口ジロー/双葉社

啄木はとにかく借金をする。浪費する。「ダメダメ」な人だ。
故郷の知人に妻子を預け、東京の新聞社で校正係として働いているが、賃金は前借り、前借り、前借り。
誰彼なく金を借り、特に同郷の金田一京助(言語学者)からは、とめどもなく金を借りて返さない。
そしてわずかに得た金で何をするかといえば、豪華な本を買ったり、遊郭に行ったり。気がつけばまた金がない。
タチが悪いのは、他人に甚大な迷惑をかけながらも、啄木の口から出る言葉、吐き出される短歌は美しい。
息をするように美しい短歌を生み出しながら、彼のゆく先々に借金が増えていく。
それが罪深いというか、恐ろしいところでもある。
そんな啄木の文学者としての才能を深く愛した言語学者で幼馴染みの金田一京助は、まるでヒモのように、こんな彼のために、何だってしてしまう。
自らの大切な蔵書を、この啄木のくだらない借金のために売り払ったりもしてしまう。
特に、啄木がカミソリで自殺を図ろうとするシーンのインパクトは凄まじい。

漱石、鴎外、啄木……教科書に「文豪」「偉人」として描かれる、みんな「ダメダメな人」なのだ。その人間らしさ、ダメっぷりを堪能できる。

そして、それまでの「ダメダメな文豪」シリーズから急転直下、シリアスな展開を迎えるのが第4巻『明治流星雨』だ。

坊っちゃんの時代
©関川夏央/谷口ジロー/双葉社

この巻は幸徳伝次郎《秋水》を中心に、多くの社会主義者・無政府主義者が、1910年(明治42)年、逮捕・投獄された大逆事件(幸徳秋水事件)を、多くの資料に基づいて、淡々と描いていく。
幸徳秋水ら5名が皇太子殺害計画を企てたとして逮捕され、その後、ほとんど「言いがかり」のような冤罪によって多くの社会主義者・無政府主義者が逮捕され、収監され、12名が死刑となり、5名が獄死した。
この大弾圧事件を皮切りに、当局は政治団体だけでなく、思想団体、宗教団体、修養団体……思想や信念を持つ人々、真理を追求したり、思索したりする人々、団体に次々に圧力をかけてゆく。
すべての人が国家に追従することしかできない「時代の空気」を、暴力を伴う強制力によって作り出していき、やがて「あの戦争」につきすすんでいくことになるのだ。

第5巻では、死の床についた漱石が、明治を振り返る、明治への鎮魂歌というべき内容だ。

坊っちゃんの時代
©関川夏央/谷口ジロー/双葉社

漱石の小説『坊っちゃん』のラストでは、主人公の無鉄砲な青年教師は、学校の権力者である校長に反旗をひるがえし、西洋かぶれの教頭の赤シャツ教頭に生卵を投げて、「逃げる」のだ。
権力的な者、そして西洋的な者に「生卵」をぶつけ、それで一矢報いたつもりになって、逃走する。
実際の漱石は、ロンドンで西洋人たちへの劣等感に苛まれ、西洋に恐れをなしてアパートに引きこもり、心身を病んで逃げ出してきた。
啄木は夢に破れ、鴎外は「家」、そして「国家」の支配に負けて、愛する女、自分を追ってきた外国から日本に来た女を冷たく裏切るのだ。
幸徳秋水は、国家という巨大で非人情なものによって殺されてゆく。
これらは全て「敗北」の物語だ。
そして、その「敗北」は、ただ彼らのみの敗北ではない。その後の日本の「敗北」を暗示しているのだ。
我々は、漱石や鴎外や啄木の「ダメダメな姿」を見て安心もし、面白くも思う。
だが、それは群狼の中で震える子犬のように、西洋への劣等感に押しつぶされそうになりながら、最後っ屁のように生卵をぶつける、そんな日本の姿だ。
名門の家に生まれ、帝国陸軍という組織にいた鴎外は、大きな力に負けて、己を殺して、愛する者をひどい目にあわせ、捨てて逃げる。そればかりか、それを美しいファンタジー物語仕立てにして、自己正当化し、それで罪をつぐなった気になる。
自己愛の塊である啄木は、自らの欲望に負けて、自分を信じ、情けをかけてくれた者を次々と裏切り、しかもそれを気にすることもない。
そして、幸徳秋水は、国家に選ばれて、殺される。
彼らはそのまま明治の、そしてその後の四半世紀の日本と日本国民の姿を、見せつけられてでもいるようだ。

この『坊っちゃんの時代』シリーズに登場する文豪たちは、『文豪ストレイドッグス』のように、イケメンでもなく、文豪同士がバトルで戦ったりはしない。派手な必殺技も武器もない。
ただ単に文学者たちの日常を描くのだが、それは退屈な日常ではない。
地味でダメダメな実在の文豪たちもまた、それぞれ「何か」と戦いながら、日々を生きているのだ。
この『坊っちゃんの時代』シリーズを読むと、どうして彼らの残した作品が100年後の現在でも愛され続けるのかが、きっとわかることだろう。

坊っちゃんの時代/関川夏央 谷口ジロー 双葉社