癒し系恋物語の名手が描いた新境地!まったく癒されない恋物語『はじめてのひと』

レビュー

谷川史子という漫画家をご存知だろうか。1986年に『りぼん』でデビューして以来、数多くのヒット作品を生み出してきた超ベテランの人気漫画家である。彼女は「好き」を巧みに表現する。スマホの着信ディスプレイに好きな人の名前が出てきたときの胸がきゅってなる感覚や、なでられた時の感触を思い出してふわふわする感覚みたいに、「好き」の気持ちをみずみずしく描く。

清々と』を読むと、口角が上がっている自分に気づく。

おひとり様物語-story of herself-』は何気ない日常を優しさに溢れた出来事に変換してくれる。

まさに癒し系恋物語の名手なのである。

今回紹介するのはそんな谷川先生の新境地とも言える『はじめてのひと』。最新の2巻まで(2018年8月時点)一気に読んでほしい。口角が上がるどころか眉間にシワが寄るような苦しい恋愛描写の数々にしばらく立ち直れないだろう。今までの谷川漫画に出てくる主人公たちと比較して明らかに表情が”暗い顔”が多い。私はその苦しさに途中何度もページを閉じて心を落ち着かせた。

はじめてのひと
©谷川史子/集英社

テーマは大人の”はじめて”。

この作品のキャッチコピーは「おとなになっても、たくさんの”はじめて”がある」。
舞台はとある博物館。そこを取り巻く登場人物たちの”はじめて”を描いたオムニバス形式のストーリー展開だ。

第1話の主人公は博物館に勤める久緒。彼女は自分の”はじめて”のセックスにコンプレックスを持っていた。それは今の恋人にも打ち明けることができないまま、久緒に「人を愛すること」の自信をなくさせる心の傷へとなっていく。

性体験にフォーカスすることは今まで谷川漫画になかった設定だ。日常の中の気づきや感動に対して物語を構成することが得意だった谷川先生が描くのは、人の中にじっとあり続ける心の傷や暗い部分だったのである。この作品に登場する彼らの心情は苦い恋愛をしたことのある人たちにきっと刺さる。だから、男女問わず読むことのできる作品だ。

谷川漫画における男性描写の変化。

この作品では、今までの谷川漫画とは違う男性の描かれ方がされている。

まずは第2話で登場するOLの香菜の恋人、鳥野(とりの)。谷川漫画では男の子が好きな女の子に対して一生懸命になって告白したり、彼女のことを気にかけてさりげなく助けたり、読者が応援したくなるザ・少女漫画の男の子が多い。なのにこの鳥野という男、まったく少女漫画の男の子らしくない淡白さなのである。仕事が忙しいと言いつつ一人で博物館の展覧会に行ってしまったり、旅行中に勝手に散歩に行ってしまったり、連絡をよこさなかったり。香菜は自分だけが気持ちを揺さぶられているのではないかと不安を募らす。

恋愛は一人ではできない。恋人に無頓着である鳥野のような男との恋愛を、大人のストーリーに展開させる結末には「さすがだな」と感心せざるを得ないから必見だ。

そしてもうひとつ。男性の描き方だ。第4話から登場する、チェロ奏者の諏訪内(すわない)は今まで谷川漫画で見てきた男性と描かれ方が全く違う。

時代を追ってみると今までの谷川漫画における男性の描かれ方は、童顔タイプで優しい顔立ちの男の子が多かった。

一方、御年41歳カッコイイおじさまであるチェロ奏者の諏訪内は目の書き方から唇のふくらみまで今までないデザインをしており、そのキリッとした目元はセクシーな印象がある。

「こんなにも色っぽい男の人が描けるだなんて」と過去に谷川漫画を読んだことのある人はびっくりしたことだろう。さらに谷川先生は諏訪内を描くために自らチェロを習い始めるという徹底ぶり。デビュー30周年を経てもなお変化し挑戦し続けるその姿勢に驚かされる。

恋に落ち、堕ちていく女性の変化。

この作品でもっとも苦しいと感じたのは第4話から始まる美術修復士の与(くみ)の話だ。

仕事に夢中で恋の仕方すら忘れてしまっていた彼女が出会ったのは、先ほど紹介したチェロ奏者の諏訪内である。41歳の諏訪内と、25歳の与。大人の男性である諏訪内に与がするすると惹かれていく様子はとても瑞々しく、読んでいるこちらまで胸が踊る。「用件を先に言う」という誘い方一つで与の心が動かされるシーンはさすがとも言える描写だ。

恋に落ちる瞬間の表現にはこちらまでキュンキュンしてしまう。

しかし、恋してからがこの物語の本題。諏訪内には、ある秘密があった。回を踏むごとに「好き」の沼にハマってしまい、抜け出すこともできなくなってしまった与の堕ち方を彼女の表情から読み取ることができる。そして一人の女の子が経験を重ね女性になっていく姿から、目を離すことができないのである。

ここまで女性の表情が変わるのかと、ゾクッとする。

はじめて愛し合った人と与は、どうなっていくのか。今まで数々の谷川漫画に癒されてきたが、今回の作品はまったく癒されることがなく、ページをめくることに恐怖すら感じる。結末は、笑顔でハッピーなのか、それとも……。

癒し系恋物語の名手が描く新たな恋愛模様の数々をぜひ楽しんでいただきたい。

はじめてのひと/谷川史子 集英社