その「性的すぎる肉体」が女を“敵”と“味方”に分けてしまう『ひばりの朝』

レビュー

Instagramを見ていると、どう考えても“遠近法”を使って自分の顔を小さく見せようとしているな、という女の子が山ほど出てくる。心底仲がいいと思っている友達とプリクラを撮りに行っても、シャッター音が鳴るたびに彼女が半歩後ろに下がっているのに気づいて辟易とする。彼氏ができたという話を母親は喜んで聞いてくれるが、あんまりにも幸せそうなノロケ話になると途端に「女」の表情になって心が離れていくのがわかる。親ですらそうなんだから、友達に「彼氏にされて嬉しかったこと」なんて言えるわけがない。

自分よりも幸せそう、自分よりも可愛い、自分よりもモテそう……誰かに対して「自分よりも」という言葉を使って比較しようとした瞬間、相手と私の間に対等な関係はない。そこにあるのは、マウンティングが前提の敵と味方に分かれた世界だ。

ひばりの朝
©ヤマシタトモコ/祥伝社フィールコミックス

ヤマシタトモコ著「ひばりの朝」は、同世代の子たちよりも発育がよすぎるために、クラスメイトの女の子からは疎ましがられ、男の子からは好奇の目で見られ、大人たちからは敬遠される……そんな哀れな少女が主人公の、外見で簡単に惑わされ翻弄される人々の愚かさを描いた快作である。

その“肉体”が彼女を孤立させる

主人公の手島日波里(てしまひばり)は、中学二年生。豊満なバストと、肉感的な腰つき、扇情的な表情は、その年齢には不釣り合いの大人びたものである。思春期で初潮を迎える女子も多いこの時期に、日波里はすでに母親譲りの「女」という武器をもってしまっている。

ただそこにいるだけで「色目を使ってる」と言われ、年上のいとこと歩くだけで、その彼女に猛烈な嫉妬を起こさせる。たとえ彼女に恋愛感情を持っていたとしても、日波里を好きだ、と言えばクラスメイトの男子から「お前エロイな」とからかわれてしまう。ちょっとトロくて、中身は平凡。誰かを出し抜こうなんて思っていないが、彼女がまとう肉体が、勝手に人の心を惑わせる。

日波里は、ただその大人びた見た目のせいで、孤独であった。

女は誰しもが自分と彼女を比較する

この作品の中には、少女漫画の中では脇役のような存在たちの声がクローズアップして描かれているのが特徴的だ。

たとえば、日波里がなついてよく家にも遊びにいくいとこの完ちゃんの彼女、富子。彼女は日波里とは対照的な男っぽいサバサバとした性格と、女性らしさとは程遠い長身で骨ばったスタイルの持ち主。もし少女漫画の脇役なら、可愛らしい主人公を意地悪な女の子から守ってやったり、主人公の心の拠り所になるようなキャラクターである。

しかし富子は、ここでは限りなく「女」として描かれる。日波里を見た瞬間、彼女の心の内に起こる感情は“動揺”だ。日波里は彼氏のいとこであって、彼といることは決して浮気にはならないが、自分の劣等感を刺激してくるような少女が彼氏の側にいるだけで、ただそれだけで平静ではいられない。

富子にとって日波里は、どうしても自分の肉体や「女としての価値」に対して劣等感を与えてくる存在でしかない。彼女に“近親相姦”の疑惑があると知ったときも、助けるよりもまず、彼女のことを脳内から消し去ることを選択してしまうのだった。

「外見じゃなくて中身を見てよ」は綺麗事か?

日波里には何の罪はない。ただ、周りがあることないこと言うだけで、自然と教室から浮いた存在になっているだけだ。むしろ、クラスメイトの幼さや残酷さこそ責められるべきだろう。

しかし、彼女は自分自身のことを責め続ける。自分のまとう肉体が、周囲の人間の心を波立たせていることを自覚しているからだ。

そんな日波里を、それでも理解しようとする存在も一人描かれている。担任の辻だ。彼女は、どちらかといえば冷淡な女性で、あらゆる競争や嫉妬、やっかみから解放されている。つまり、他人に興味がない。だからこそ、彼女はフラットな目で日波里を見ることができた。彼女のことをちゃんと見ようとすれば、彼女が噂でささやかれるような少女ではないことは一目瞭然であったのだ。

よく「中身は外見に現れる」という主張を目にするが、それは本当か? 「外見じゃなくて中身が大切なんて綺麗事だ」という発言をする人に問いたいが、それは本当に綺麗事なのか? あなたにその能力がないだけではないのか? 知らず知らずのうちに、肉体に目を囚われて、中身まで見る余裕がないだけではないか?
日波里の存在は、そんな問いかけを読者に与える。

『ひばりの朝』は、日波里の周囲の人間たちの心の模様が様々な角度から描かれることによって、日波里という存在が色々な面を持って浮き出てくる。もちろん理不尽な目にあう日波里だって、聖人君子ではない。周囲の人間と同じように、日波里も人間なのだ。

タイトルに名前を冠しているにもかかわらず、彼女の心境が描かれる場面は驚くほど少ない。しかし、その一句一句は切実たるもので、彼女が人知れず傷つき、人知れず苛立ち、人知れず諦めていく様を目の当たりにすることができる。

最後まで読み終えて思うのは、日波里の周りの人々たちを、私たちは責められるのか?ということである。私たちだって、知らず知らずのうちに見た目で判断して、勝手に人を傷つけている瞬間はあるのかもしれないのだ。そんな権利、持っていないのに。

ひばりの朝/ヤマシタトモコ 祥伝社