精巣ガン治療で出会ったひとの人情と、漫画家を諦めなかった武田さんの話『さよならタマちゃん』

レビュー

夢を追いかけている最中にガンになってしまう――。どれほど恐ろしいことだろうか。
 
『さよならタマちゃん」は、ガンの闘病を描いた作品である。
 
武田さんは35歳の時、精巣ガンと診断される。
当時彼は、マンガ家のアシスタントで生活費を稼ぎ、奥さんと愛犬と暮らしながら、自らもマンガ家デビューを目指すという、苦しくも目標のある人生を送っていた。
本作では、そんな武田先生が夢半ばで「死ぬかもしれない」病気にかかってしまった葛藤、入院生活のリアル、そして入院中に武田さんに温かい手を差し伸べてくれ人々との交流が赤裸々に描かれる。

さよならタマちゃん
©武田一義/講談社
 
本編では、ガン闘病の実態が、経験をもとにリアリティをもって描かれる。例えば食事に関するものだと、
 
・抗がん剤の副作用の1つに、「味覚異常」がある。シュークリームが泥の味に感じてしまったりする。
・味覚異常で食べ物がまずく感じてしまう時は、味付けを激しょっぱくして無理やり食べる(しょうゆやふりかけをたくさんかける)。
・さらに副作用が悪化した時に武田さんが主に飲食できたのは、ポテトチップスコンソメ味とCCレモンだった。
 
このようにかなり具体的に闘病の様子がわかる。実際の経験による生々しい描写は、『さよならタマちゃん』の魅力の1つだ。
 
だが、本作の最大の魅力であると思うのは、武田さんが入院中に出会ったり、闘病を支えてくれたりした人たちと交わす、コミュニケーションの部分だ。
その中でも印象に残る方を紹介したい。
 

奥さんの早苗さん

武田さんの奥さんである早苗さんは、入院している彼にとって、言うまでもなく大きな存在だった。
 

 
治療が進むにつれて、副作用は重くなる。武田さんの場合、嗅覚が敏感になったことで人のわずかな体臭だけで吐いてしまったり、聴覚が過敏になったことにより同室の患者さんの何気ない話し声に苦しんだりしてしまうようになる。
 
ある日、ストレスが限界に達した武田さんは、お見舞いにきた早苗さんに向かって「もう来るな!」と怒鳴ってしまう。
 
それから早苗さんはお見舞いに来なくなった。体調を崩し、外出ができなくなったのだという。その報告を受け、武田さんは、なにも悪いことをしていない彼女に対して怒り狂ってしまったことを後悔する。
 
数日後、自己嫌悪におちいる武田さんの元に、早苗さんが帰ってきた。
 

 

私は、かず君の言った「来るな来るな」は、「助けて助けて」ってことなんだと思った

 
武田さんは、そう言われて初めて、無意識に無理をしていたことに気がつく。そして彼女に向かって正直に「治療がつらい」と告白する。
それから早苗さんは、におい、騒音、食事といったストレスを少しでも取りのぞくために、献身的にサポートを続けた。
 
思えば入院前、武田さんのからだの異変に気づいたのも、入院中に1番近い距離で支え続けたのも、早苗さんだった。武田さんは改めて、彼女のやさしさに気がつく。
 

アシスタント復帰を待ってくれたO(オー)先生

 
O先生は、当時武田さんがアシスタントをしていた有名漫画家だ。
 
ガンの治療は長期にわたる。 アシスタントとして戦力になることができないので、契約を解除しなければならない。そうなると、もし退院できても失業者だ。しかし、残してくれとダダをこねて、O先生の連載に支障をきたすわけにもいかない……。武田さんはO先生に、断腸の思いで「代わりのアシスタントを探してください」と伝える。
 
それからしばらくたったある日、O先生から「話がある」と電話がかかってくる。アシスタント仲間を連れてお見舞いに来たO先生は、武田さんに、とある提案をした。
 

 
なんと、O先生は、武田さんの復帰を待ってくれるというのだ。
 

迷惑かけたくない気持ちもわかりますけど、病気なんだからそれは諦めませんか

 
そこで武田さんは、O先生に「取り替えのきくひとりのアシスタント」と見られていなかったことに気がつく。O先生は、漫画家になる夢に向かって努力しつづける武田さんを、長い間見守っていたのだ。
それから武田さんは改めて、漫画家になるのを諦めない、という決意を固めるのだった。
 

同室の桜木さん

 

 
桜木さんは、同じ入院部屋のガン患者さんだ。
抗がん剤治療歴は1年のベテラン。いつも元気で明るい人柄から、同じく入院している患者さんはもちろん、病院のスタッフさんからも信頼されている。
 
桜井さんの症状は軽いものではない。たまに見せる暗い表情や、1年も治療を続けているのに退院できていないのが、それを物語る。にもかかわらず、桜木さんは「後輩ガン患者」に気を使ったり、食事のコツを教えたり、極めて明るくふるまい続ける。これって本当にすごいことだ。
最終話で明かされる回想にて、桜木さんはこんなことを言っている。
 

なぁ武田さん。考え方によっちゃーよ、病気も贈り物だよな

 
本編をすべて読めば、このセリフが武田さんと桜木さんにとって、どれほどの重みがあるのかがわかるはずだ。
 

どんな状態でも失われない人情

 
私事で申し訳ないが、私はガン家系に生まれた。先月祖母がガンで亡くなり、曽祖母も、おばも、大おばもガンで亡くなっている。
私は今、絵でご飯を食べていくという目標がある。そんな最中に、もしガンになってしまったら。その心配は、決して他人事ではなかった。
 

 
漫画家デビューを目指している最中で、命に関わる病気になる。ものすごくシビアなテーマなのに温かいお話に感じるのは、きっとかわいい絵柄だから、だけではない。武田さんが出会ったひとの人情と、武田さん自身の人情を、ものすごくていねいに拾いあげて描いているからだ。
 
武田さんの長年の夢と、たくさんの人々の想いがこめられた『さよならタマちゃん』を、ひとりでも多くの方に読んでいただきたいと強く思う。
 
 
さよならタマちゃん/武田一義 講談社