『じゃりン子チエ』ゴンタクレな父親と、しっかり者の娘の、円環する昭和神話

レビュー

じゃりン子チエ【新訂版】
©はるき悦巳/双葉社

『じゃりン子チエ』という漫画をご存知だろうか?
……なんて書くと、関西地方の、ある年齢以上の方には、
「誰に聞いとんじゃ、ワレ!」
と怒られてしまうかもしれませんね。
というのも、昭和の終わりごろ、関西地方では『じゃりン子チエ』のアニメがリピート再放送されており、最終話を迎えても、また第1話から再放送されるというヘビーローテーション。
……その《無限ループ》にさすがの関西人も、
「ええかげん飽きたわ!」
「もう何回も見て、セリフも覚えたわ」
と思った頃に、嘘のように第2シーズン……新作シリーズ『チエちゃん奮戦記 じゃりン子チエ』が10年ぶりに新規制作されてしまい、新たなループが始まるという脅威……もとい「驚異」の作品。
「関西人、どんだけ『じゃりン子チエ』が好きやねん。まあ、自分も好きやけど」
と、なんだかんだといいつつも、この無限ループは苦ではなく、ついつい見てしまう。
関西在住でアラフォー以上の人たちにとって『じゃりン子チエ』は、「吉本新喜劇」や「探偵ナイトスクープ」と同様に、日常の一部であったことでしょう。
その年代の関西人は異様に『じゃりン子チエ』には思い入れもあり、内容についても詳しくもあるのですが、それはあくまで「テレビアニメ」が制作されたエピソードの中だけであり、実際にはその数倍にもなる「大河漫画」としての原作があることは、ともすれば忘れられがちです。
今回は、そんな関西人の「通過儀礼(イニシエーション)」ともいえる作品、『じゃりン子チエ』について考えてつつ、「『じゃりン子チエ』、面白いで……」とオススメしてみようと想います。

漫画『じゃりン子チエ』は、双葉社の「漫画アクション」に1978年から1997年にわたって連載された、はるき悦巳先生による「人情喜劇」漫画です。
一方で、ある意味では「任侠活劇」漫画としての意味合いも持っていますが、それはおいおい説明しましょう。
 主人公のチエちゃん(竹本チエ)は、大阪の下町に住む、小学5年生の女の子。
しっかり者のチエちゃんには悩みがあって、それは父親「テツ」のこと。
40近くにもなるのに定職につかず、腕っぷしが強く、趣味と実益をかねて、道行くヤクザを殴り、カツアゲをして、その金でバクチする。
「ゴロツキ」あるいは「ゴンタクレ」です。
母親は家を出ていってしまいました。
チエちゃんはその働かない父親のために、小学校から帰ってからの夕方、自宅の「ホルモン焼き」の店を開け、夜中までホルモンを焼いて、酔客に提供する……。
そう。
チエちゃんは、小学生でありながら、自分で日々の糧を稼いでいるのです。
ダメな父親の分も食い扶持をかせぐ、不幸だけど、健気に生きる少女のストーリー。
 
……ではありません。
 いや、一応その通りなのですが、それだけじゃないのです。
「ウチは日本一不幸な少女や」
がチエちゃんの口癖ですが、メソメソしたりはしません。
そこは、大阪特有のコテコテ……というのも違う気がしますが、とにかく明るく、前向きで、あっけらかん、日々を生きていきます。
そう、チエちゃんはまさに「生きていく」のです。
父親が働かないのであれば、自分が働くしかない。
すでに「覚悟」がきまっています。
ダメ父のテツも、極悪人かといえばそういうわけではありません。
殴ってお金を巻き上げるのは基本的にはヤクザで、基本的には弱い者イジメはしませんし、バクチはするけれども、酒・煙草はやらず、女性には手を上げない。
悪ガキがそのまま大人になったような感じです。
ナチュラル・ヤクザ・キラーのテツのおかげで、チエちゃんの住む下町の治安が守られているという側面もあります。
 チエちゃんは、どうしようもないゴンタクレの父親・テツを下駄でシバきまわしながら、それでも力強く生きているのです。
  
この父娘を中心に、脇を固めるキャラクターたちが、また魅力的です。
テツに不似合いな慎ましやかな美人の母親・ヨシエはん。テツが頭が上がらないおバアはん、テツと正反対で気弱なおジイはん…といった家族。
元ヤクザのお好み焼き屋「堅木屋」のおっちゃん、豪放磊落なテツの恩師・花井先生、テツにシバかられているテキ屋のカルメラ兄弟。テツを狙う地獄組のボス、テツにそっくりな健康優良不良少年コケザル……どこか憎めないどころか、どんどんチャーミングになっていく「筋モン」の人々。
同級生のヒラメちゃん、イヤミなマサルと腰巾着のタカシ……さらに、典型的教育ママだったのが、巻を追うごとにキャラが立ちまくって面白くなっていくマサルの母親。
 そして……この作品のもう「一人」の主役、猫の小鉄と、そのライバルにして相棒・アントニオ・ジュニアと、それをとりまく猫たちの物語。
彼ら一人ひとりに過去があり、日常に巻き起こる軽妙でハートフルな人情喜劇と、それによる人間関係の小さな変化が積み重なり、原作コミックスでは67巻に及ぶ大河作品になっています。
枚挙にいとまがない魅力的なキャラクターたちは、この作品の魅力の一つでしょう。
 
さて、この作品は『ドラえもん』や『サザエさん』のように、キャラクターは基本的には年をとりません。そういう「ループする物語」です。
しかし、そうであるにもかかわらず、『ドラえもん』や『サザエさん』のように、一話完結し、次の話からは人間関係や出来事の記憶がリセットされるような物語ではありません。
さまざまな経験をする中で、チエちゃんは永遠に小学5年生でありつづけるのです。
まさに「無限ループ」です。
あるいは、「永劫回帰」、「円環の理」といってもいい。
その円環の中で、因果の糸がぐるぐると張り巡らされ、キャラクターたちの感情と関係性がどんどん積み重なり、物語世界が重厚になり、発酵していく……なのに、見た目上の時間は経過していない。
『じゃりン子チエ』は、そういう「終わりなき物語」でもあるのだと思います。

 では、なぜ、それほどまでに長く続いたのか。
 その明快な回答といえるのが、映画版『じゃりン子チエ』(監督 高畑勲)です。

そう。『じゃりン子チエ』はテレビアニメ化に先駆けて、1981年に劇場アニメ化されているんですね。のちにスタジオジブリを宮崎駿監督とともに設立する、あの高畑勲監督によって。
ちなみに、この作品には数多くの上方芸人が声優として参加しており、関西での評判も高かったように記憶しております。アニメでよくある「エセ関西弁問題」が微塵もみられません。この芸人の声優起用は、のちに同じく高畑勲監督のジブリ作品『平成狸合戦ぽんぽこ』での、四国狸の芸人起用などにもつながっているのではないかと推測します。
さて、映画版では、原作の最初期のエピソード、チエの父親テツと、家を出ていったヨシエがよりをもどすところまでが描かれています。
これはまさに、なるべくしてこうなった、「必然」というべきチョイスかもしれません。
というのも、「母の帰還」エピソード以上に、『じゃりン子チエ』全編を通して、テツとチエの父娘とって、これ以上にもっともドラマチックに物語と関係性が動くシーンはないと思われるからです。
映画は、この父と母の「復縁」を描いて終わりますが、実はこの事件こそ、このまま『じゃりン子チエ』という物語が「本当に終焉を迎えてもよい事件」であったともいえるのです。

読者の心を揺さぶった「ゴンタクレな父親を食わせるために、働き続けなければいけない小学5年の少女」という決定的に強烈なキャラクター「設計」は、ここで実は崩壊しているのです。
洋裁の先生をしていたヨシエが戻ってきたわけですから、収入が保証されます。
チエが「法律違反」をおかしてまで、ホルモン屋で勤労する必要はなくなります。
父一人、娘一人という関係性も崩れてしまいます。
キャラクターの目的である「欠落(母の不在)」が無効化してしまうため、「ストーリー作品」としては、映画版のように、本当はここで終わるのがベストだったのでしょう。

ところが、チエは「ウチ働くの好きやねん」という理不尽な、あるいは強引な理由によって、母親が帰ってきた後も、ホルモンを焼き続けることになります。
 ホルモンを焼くこと、働くことが「趣味」になってしまうのです。
 読者は「あれっ」と思う一方で、どうなってしまうかと心配した「チエちゃんの世界」が、続くことに安心し、キャラクターたちと一緒にいられることを喜んだことでしょう。

 さて、この『じゃりン子チエ』で描かれる、もう一つの世界があります。
 さきほど、「人情喜劇」であり、同時に「任侠活劇」でもあると言いましたが、この作品には『仁義なき戦い』のような、ヤクザ映画的な側面もあります。
 とはいえ、最強のナチュラル・ヤクザ・キラーであるテツが存在することで、周囲には、あまり凶悪なヤクザは出てきません。もちろん、ヤクザは登場しますが、最終兵器テツ(あるいはテツをもしのぐキャラクターたち)がいるため、シリアスな展開にはならないのです。
ある意味で、テツの存在が抑止力になって、街の治安が保たれ、殺伐とした事件は起こらなくなっているともいえます。
 では、どこが「任侠活劇」なのか。
それは「猫」たち。
人間たちが、明けても暮れても、悲喜こもごもの人情新喜劇を繰り広げている足元で、小鉄やアントニオ・ジュニアなどの猫たちが、任侠映画や股旅映画のような、シリアスな闘争や愛憎のドラマを繰り広げているのですね。
小鉄はチエちゃんの家に来る前は「月の輪の雷蔵」と呼ばれた侠客猫で、その活躍は『じゃりン子チエ』本編だけでなく、『どらン猫小鉄』などのスピンオフでも描かれています。
 人間の世界ではストーリー漫画ではなく人情喜劇に完全シフトしていったため、シリアスなアクション活劇を人間では描けなくなり、もう一つ「猫」の世界でそれをやろうとしていたのかもしれません。

 もし『じゃりン子チエ』に興味を持った人は、ぜひ高畑勲監督の劇場版を御覧ください。
 高畑監督は原作ありの作品を、原作のイメージを大切にしながら、劇場アニメ化されることに定評がありますが、この作品でも、そんな高畑勲監督の手腕がいかんなく発揮されています。漫画ではいかにも「ギャグマンガ」といったタッチのチエちゃんたちが、違和感なく動き、その平坦な顔もまるで「蒼き衣をまといて金色の野に降り立った美少女」のように見える瞬間があるのに気づくはずです。

 そして、世界観を気に入ってもらえたらな、原作の漫画『じゃりン子チエ』を読んでみてください。
きっと、昭和末の大阪の下町を部隊にした、円環する物語から、魂が抜け出せなくなること請け合いです。

『じゃりン子チエ』は、67巻で完結、その長い物語に終止符を打ちます。
 さて、どういう結末を迎えたでしょうか?
 本当に終わらない物語なのか……『じゃりン子チエ』の結末がどうなっているか。
 それは、ご自身の目でお確かめください。

じゃりン子チエ【新訂版】/はるき悦巳 双葉社