めくるめく官能とノスタルジー…『深夜食堂』著者の衝撃デビュー作『山本耳かき店』

レビュー

実在のお店の「元ネタ」。不思議な耳かき屋さんにまつわる物語

「山本耳かき店」という言葉で検索した時、最初にヒットするのは都内で展開されている耳かき専門店だ。今回初めて公式ウェブサイトを覗いてみたのだが、浴衣姿の女性が膝枕で耳つぼマッサージや耳かきをしてくれるサービスを提供するお店らしい。
このお店には、(そう明言されてはいないようであるが、明らかな)「元ネタ」が存在する。
それが、『深夜食堂』の著者・安倍夜郎氏のデビュー作『山本耳かき店』だ。

山本耳かき店
©安倍夜郎/小学館

『山本耳かき店』は、2004年から2010年にかけて「ビッグコミックオリジナル」(小学館)本誌・増刊で不定期に発表されたシリーズ。
割烹着姿の不思議な女性が高知県のある町で営む「山本耳かき店」では、1本1本手作りの特製耳かきの販売と、彼女の膝枕での耳そうじサービスを行っている。
一度でも彼女の耳かきを体験した人は、それをずっと忘れられなくなる。
今際の際に彼女を招き、耳そうじを施されながら死んでいく老人、毎週のように店に通い詰めるサラリーマンたち、幼い頃のその記憶から、医者に注意されるほど頻繁に耳かきをしてしまう女子学生…など、山本耳かき店のとりこになった人々と、その小さなドラマが描かれていき、エピローグで女店主自身についても少しだけ語られる。
不思議で、ひっそりとして、素朴で、どこか懐かしくて、つつましやかな物語だ。

老若男女の心の奥底を優しくくすぐる。耳かきのもたらす芳醇な「快楽」

そんな静かな物語であるにもかかわらず、一方で本作は、強力なエロティシズムを含む漫画でもある。
ある男子中学生は、お祭りで買った山本耳かき店の耳かきに魅了され、やがて女店主の耳そうじを体験するにあたって、初めて「経験」してしまう。
つき合っている男との行為では一向に「感じない」女性は、女店主の耳そうじに強く「感じ」、その後、男に別れを突きつける。

しかし、(ごく観念的な、上品な表現で描かれてはいるものの)そうした直接的な性的刺激のイメージに結びついた描写がある一方で、同時に、その耳かきがもたらす快楽は、瞬間的な刺激というよりは、心の奥底に深くじわりと広がる幸福感を伴うものとしても描かれていく。
物心つく前の幼い子どもも、中高生も、家族も仕事も社会的な立場もあるいい大人も、それらが一通り落ち着いた中高年も…その誰もが、彼女の耳かきにたまらない「気持ちよさ」を感じてハマってしまうが、そこに描かれる「気持ちよさ」は、刺激に直結した表面的なものではなく、もっと深く、あたたかく、ほっとして泣いてしまうような優しさを含んでいる。

この感覚は、結局、先に述べた「懐かしい」につながるものにも思える。「気持ちいい」と「懐かしい」は、本当はとても似ているのかもしれない。
そんなふうに、本作はたしかにエロティックだけれど、そのエロティシズムは、うんと大きな意味を持つものだ。
読者は山本耳かき店を訪れる客と同様、心の柔らかい部分を耳かきでそっとくすぐられ、ほう…とため息を漏らしてしまうのだ。

著名な代表作で見られる魅力とは異なる、奇妙でユニークな一面

著者は本作を発表したのち、2006年に『深夜食堂』の連載を開始。
深夜営業の新宿の定食屋を舞台に、店を訪れる客らのドラマを描くこの作品は、幅広く関心を持たれやすい「食」というテーマや、マスターや常連客らの魅力的なキャラクター造形、ほぼ1話完結で展開されていく渋くも読みやすいストーリーで人気を得て、TVドラマ化や映画化もされ、著者の代表作となった。

筆者ももちろん『深夜食堂』は愛読しているが、「ビッグコミックオリジナル」で『山本耳かき店』を読んだ時の衝撃を忘れられなかった身としては、『深夜食堂』では、普遍的なテーマが安倍氏の世界に対するある種のフィルターとして作用しているところがあるような気もしている。
近年はやはり「わかりやすい」ジャンルである自伝的な作品も描かれているが、機会があれば、ぜひまた『山本耳かき店』のような、ジャンル分け不能な奇妙な持ち味を前面に出した作品も読んでみたいと思う。

山本耳かき店/安倍夜郎 小学館