なぜ私たちは、マイノリティを放っておけないのだろう?『しまなみ誰そ彼』

レビュー

昔、知人が「セクシャルマイノリティーの人たちにとって、その性志向はアイデンティティとなってるわけでしょ。なのに、それをカミングアウトしづらい社会は間違っている。もっと気軽に言えるようにに、社会を変えていかないといけない」と言っているのを聞いて、「本当にそうだろうか?」と思ったことがある。

もちろん社会が受け入れる雰囲気を作ることで、より生きやすくなる人は増えるかもしれない。

ただ、カミングアウトをするかどうかは当事者の問題であって、その発言にはまるで「カミングアウトすることが正義だ」とでも言わんばかりの押し付けがましさがあった。別に、彼女自身はその問題で苦しんではいないのに、だ。そもそも、性志向はあくまで彼らのアイデンティティを占めるのではなく、構成する要素の一つに過ぎないだろう。

なぜ私たちは、自分とは違う性志向の人々に対して、そこまで忌避したり、もしくは肩入れをしたくなってしまうのだろう? なぜ、「相手と自分は違う人間だ」と言って、放っておくことはできないのだろう?(放っておくことと、阻害することは違う。念のため。)

そういう疑問に対して、ひとつのアンサーになるのが『しまなみ誰そ彼』という作品だと私は思っている。ここには、「性」をひとつの軸として、一筋縄ではいかない「人間の業」のようなものが描かれているのだ。

読んでみれば、きっと誰しも我が身を振り返る。「私は、好意を押し付けて相手を傷つけたことはなかっただろうか?」と。

しまなみ誰そ彼
©鎌谷悠希/小学館

好きな人に好きと言いたい、ただそれだけなのに

主人公のたすくは、ある日クラスメイトからゲイ動画を観ていることがバレて、「ホモ疑惑」をかけられる。お兄ちゃんがふざけて再生したんだ、という苦しい言い訳をしながら、自分の性志向がバレてしまったのではないかと自殺を考える。そのとき出会ったのが、「誰かさん」という不思議な女性だった。

彼女は、「ごじゆうにどうぞ」という張り紙がある一軒家「談話室」の持ち主で、そこには様々な性的嗜好をもった人々が集まってくる場所になっていた。レズビアンで将来結婚式を夢見るカップルの春子と早輝、女装の趣味がある小学六年生の美空秋治、もともとトランスジェンダーで今は男性の体で生きている内海。談話室でコーヒーを入れてくれるマスターも、同性愛者で男性のパートナーがいる。

たすくはそこに出入りをするようになった。家族にも言えない孤独を抱えたたすくにとって、そこは居心地のいい場所だっただろう。しかし、だからといって簡単に今まで隠し続けてきた自分の性志向を口にすることはできるわけではない。

しかし、談話室メンバーの話を聞いたり生き方を見ているうちに、彼の抑えきれない気持ちが込み上げてくる。彼らが運営している、古い空き家を解体し、新しい家として手入れをして新しい入居者に引き渡す、尾道空き家再生事業NPO『猫集会』の作業を手伝いながら、たすくはとうとう自分の想いを打ち明けた。

誰だって、好きな人が誰か教えるときは緊張するだろう。しかし、涙が流れることは稀だ。好きな人を好きだと言う、ただそれだけなのに、たすくは堰き止めていたあらゆる感情とともに涙が溢れ出てくるのを止められなかった。

「悪意」とは戦えるけど、「善意」とは戦えない

当たり前だが、セクシャルマイノリティーだからといって当事者同士であればなんでもわかりあえる、というわけにはいかない。マジョリティからの無理解はもちろんのこと、談話室メンバーの中でも意見が食い違う場面は多々ある。

たすくが美空を深く傷つけてしまう回がある。それは決してたすくに悪気があったわけではない。むしろ「女装をして外を出歩いたらもっと楽しいはずだ」という善意から、美空を女装の姿のまま談話室から連れ出す。しかし、それは決して美空から「やりたい」と言ったことではなかった。結果的に、たすくの強引な誘いと配慮のない発言によって美空は深く傷つき、談話室にすら足を運ばなくなってしまう。

たすくに悪気はなかった。むしろそれは「善意」だった。そういった無意識の「善意」によって傷つく人々が、この作品にはたくさん描かれている。

ある日、内海と高校時代に女子バレー部の同期だった小山さんが、談話室を訪れる。すっかり男性の見た目になっている内海に対して、彼女は全く嫌悪感を見せず、むしろ好意的に受け入れようと全身でアピールする。しかし、残念ながらその言葉の節々には、理解の欠如による差別的な発言や、悪意のない偏見が散見され、内海は何も言えないまま鬱憤をためていく。

ゆかりも小山さんも、別に相手を傷つけたいと思っての発言や行動ではなかった。しかし結果的に、むしろ悪意をもった発言よりも深く相手を傷つけることになってしまうのである。内海と小山さんの一連の出来事に対して、春子の言った「悪意とは戦えるけど、善意とは戦いようがないもん。」という発言こそが、その「深く傷つける」ゆえんになっているように思える。

「わかり合いたい」はいけないことか?

ずっと我慢していた内海も、小山さんの行き過ぎた言動に、最終的には堪忍袋の緒が切れることになる。

静かに怒る内海の口から出た言葉は「馬鹿にしないでくれ」という、小山さんにとっては想定外の言葉だった。だって、そういう「馬鹿にするような」人たちから守ってあげたり、正しい理解をしてもらおう、という善意からの行動だったからだ。

しかし、それは当事者からしてみたら、「余計なお世話」以上の何物でもなかった。

私たちが当事者ではないのにも関わらず、諸問題に対して異常に肩入れをしたくなったり、もしくは嫌悪感を抱いたりする瞬間というのは、実は小山さんのいうような「(わかり合いたいのに)わかり合えない」ということのもどかしさによるものかもしれない。

「価値観や生き方が違う人ともわかり合いたい」といえばそれは美徳のように響くかもしれないが、当の本人が求めていない(どころか嫌がっている)のであれば、それは罪深いことじゃないか。「弱者を救おう」という態度だって、それはどこか上から目線で傲慢に思える。「わかり合いたい」という自分のエゴを認識せずに、「相手もわかってほしいと思っているに決まっている」と判断するのは恐ろしいことだ。

『しまなみ誰そ彼』には、セクシャルマイノリティーの人たちを適切に理解してもらおう、といったようなメッセージ性や気概は感じない。どちらかというと、「もう放っておいてくれ」という気分の方が強く感じる。

それは一部の(わかり合いたい)人々にとっては冷たく響くかもしれないが、多種多様な生き方をしている人たちが、自分のタイミングで自分の判断によって選択することの自由を奪わない、という至極当然のことだ。そこに「マイノリティー」という冠がついた途端、私たちはなぜか「保護しなければならない」といった見当違いの張り切りをみせてしまう。

もちろん、この作品は「わかり合いたい」という感情を否定しているわけではない。わかり合うためには、相手が何を本当に求めているのか(もしくは求めていないのか)を想像する必要がある、という当然のことを言っている。
たすくの「わかろうとするのは悪くないけどわかった気でいちゃいけない」というセリフが象徴的だ。作品に登場する人々は、みな自分のことですらわかっていないことが多い。なのに他人から「病気」や「ホモ」というレッテルを貼り付けられて苦しんでしまう。そこにいるのは、一人の人間であるのに。

私たちは、目の前の相手を、ただ目の前の相手として存在を認めることはできないだろうか。それはとても大変なことかもしれないけれど、それこそが「わかり合う」ための第一歩なんだ、と感じられる作品だ。

しまなみ誰そ彼/鎌谷悠希 小学館