喧嘩漫画に悟りの境地がある? 僧侶が『喧嘩商売』を読んでみた

レビュー

なぜ男子はこうまでして喧嘩に強くなりたいのだろうか?

いつの時代もそうだ。
男子が憧れるのは「喧嘩の強い男」。

金持ちよりもイケメンよりもCAと結婚するよりも「喧嘩が強い」ことに絶対的な価値が置かれるのが、男子の世界というものだ。

じゃあ、なんで「憧れるのか」って訊かれたら・・・。
「そ、それが男のロマンだろ!」と動揺した返答がくる確率が99%。
残り1%は「だって、人ぶっ潰すの楽しいじゃん?」と返してくるイかれたヤンキー(役:窪塚洋介)だけだ。

「喧嘩が強い」ことに絶対的価値が置かれる理由を「男のロマンだから」って言葉だけで済ませたら、ただの思考停止である。

しかし、そのロマンなるものは、僧侶の僕からすると(副業として副住職をしています)、キャッチするべき強い煩悩の反応。

僧侶の使命が、この世から煩悩を無くすことなのだとしたら、一番強い煩悩とやりあうのが一番手っ取り早いのだ。

喧嘩商売
©木多康昭/講談社

ということで、今回は、喧嘩好きな男子がロマンという名の煩悩を培養しているであろう漫画『喧嘩商売』を読んでみたいと思う。

男子のロマンが色濃い「喧嘩の世界」に僧侶が足を踏み入れたら何が起こるのか?
これは最強の煩悩と対峙しようとした一人の僧侶による「煩悩黙示録」である……。

「強くなること」以外の思考がない

僕は過ちを犯してしまったのかもしれない。
喧嘩漫画は、僧侶が絶対に開いてはならない”パンドラの箱”だったのだ。

「ただ強くなりたかったから」

この一言だけで単行本全24巻を語れてしまうところにこの漫画のヤバさがある。

一般的に、漫画において登場人物が「なぜ戦うのか?」という理由づけは物語の核心にも迫る重要なファクターだ。

世界を悪の手から守るため、殺された友人の復讐、ヒロインにうっかりお願いされてしまったから……など、本来「戦う理由」はキャラクターごとに入念に描かれるべきポイントのはずだ。

でも、『喧嘩商売』はちがう。
「強くなりたい」この気持ち一つで、登場人物のほとんどが戦っているのである。

「いや、強くなりたいって、どうして強くなりたいの?」
皆さんそう思ったことだろう。

その答えはこれだ。

「最強が決まってないんだったら、決めるべきだろ? まぁ俺が最強なんだけどね」
誰もがこのテンションで戦っている。

「強くなりたい」の感情の先はない。どこまで行っても「強くなりたい」のだ。

これが『グラップラー刃牙』から受け継がれる喧嘩漫画の系譜。最強を目指す遺伝子だ。

そして、それは僧侶からするならば、執着(しゅうじゃく)の塊といっても言い過ぎではないほど、巨大すぎる煩悩なのである。

僧侶の立場から見た時、なぜこの「強くなりたい欲」が煩悩なのかと言うと、元も子もなくなるが、強くなる必要がないという単純な理由だ。
満員電車で身体を支えることができるレベルの強さがあれば、この世界では十分なのである。

相手の心臓に打撃を加え、瞬時に気絶させる技も、

反撃を許さない手順で、5つの急所へ7種類の型で構成される連続打撃を加え続ける技も、この世界では全くといって不必要なのだ。
ホットケーキミックスを混ぜるだけの腕力があれば、この世界では生きていける。

ともすれば、「強くなりたい」の感情は不必要なものであり、彼らに必要なのは「足るを知る」マインドなのである。
武術しないでいいから、坐禅をしなさい。本当に。

喧嘩を描きながら「無常」を表現している

ここまでの本作に対する僕の評価は「煩悩まみれ」の一言ではあったのだが、ここでやっと僕は自分の愚かさに気づくことになる。

『喧嘩商売』だけ出なく喧嘩漫画は「ただ戦う」というどうしようもない煩悩を描いているように見えつつ、実は「非普遍性」という仏教の根幹の思想を表現しているのではないかということだ。

「は?」と疑いたくなる気持ちもわかるが、ひとまず落ち着いて聞いてほしい。

『喧嘩商売』は、シュールなギャグ漫画としての側面を持っている。格闘漫画にギャグ(主人公がバカをする場面etc)はつきものだが、あえてこの漫画のギャグの部分について言及させてほしい。

主人公は高校生の佐藤十兵衛。
古武道である富田流の後継者であるが、この内面が一癖も二癖もあるのだ。

極めて自己中心的な性格の上にナルシストで、プライドが高い。
そして、自分の都合を優先して他人を騒動に巻き込むことも少なくない。

『喧嘩商売』が特殊なのは、こういった十兵衛を中心にしたギャグシーンとシリアスな喧嘩シーンとが地続きで繋がっている点だ。

学校でのほのぼのとしたシーンから、急にヤクザが教室に乗り込んでくる。
そんな唐突すぎるヤクザの登場シーン、普通の漫画であり得るだろうか?

この場面でも、ギャグっぽい展開から急に戦闘が開始されている。
こうした描写を見るかぎり、あえて、唐突にON(戦闘)とOFF(ギャグ)を切り替えているように、僕の目からは見えてしまう。

つまり、本作では、いつどこで喧嘩が始まるのかが全く読めないということ。
さらにいえば、どのタイミングで日常が崩壊するのかも全く予測不可能だということができる。

こうした日常の「非普遍性」。
実はこの「非普遍性」の観念は、ある者により、この世界の理として2500年前から提唱されていることでもあるのだ。

そう、他でもない釈迦だ。

『平家物語』でも有名な「諸行無常」という真理。
この世に存在するものは姿形を永遠に止めることができず、絶えず移ろい変わってゆく。
今目の前にある日常も、アイスが溶け落ちて地面に流れていくように変化していくということだ。

つまり、喧嘩漫画は強くなりたいという「煩悩」の極みを描きながら、その裏では無常という「悟り」の境地を表現しているのだとも言える。

「泥中の蓮華」というのは釈迦の言葉ではあるが、よくいったものだ。
煩悩まみれた泥の中にこそ、蓮は咲く(悟りがある)という教えをまさしく体現している。

僧侶視点から語れば、ただの喧嘩漫画じゃなく、喧嘩の中に悟りの境地を表現しようとしているように思えるのだ。

日常がどう変化するかは誰にも予測がつかない。

突如訪れた非日常な事態に備えるためにも、強くなることはあながち仏道の修行と言えなくもないのかもしれない……合掌。

喧嘩商売/木多康昭 講談社