例えば、大切な人が重い病気で、余命がわずかだということをいきなり知らされたとする。
あなたは何を思うだろうか。
「できるだけすぐに会いに行きたい」「会いに行きたいけど、相手のやつれた姿を見るのが怖い」「私に病気のことを知らせなかったのは、向こうが会いたくないと思ってるからなのでは」……このように、さまざまな思いが浮かぶと思う。
では次に、自分が『死ぬ側』だったらどうだろうか。
「最後に一目会いたい」
「会いに来て欲しいけど、やつれた姿を見られたくない」
「病気のことが知られたら、前みたいに接してくれなくなるのでは」
「人生の最期」の行いは、他人の人生を大きく変えてしまう可能性がある。自分が会いたいからと行って、向こうが会いたいと思っているとは限らない。
人の思いは、一筋縄ではいかない。
『女の子が死ぬ話』は、「いつか周囲が自分を思い返すとき、きれいな思い出でありたい」という願いを叶えようとして、1人で死んでいった女の子の話である。
主人公は、死ぬ女の子の「友人」
この物語は、主に、死ぬ女の子の「友人」の目線で描かれる。
主人公・千穂は、少女漫画のような恋に憧れる女子高生だ。
高校生活の初日、千穂はクラスメイトの男の子・和哉に一目惚れする。
しかし和哉には、病弱な美少女の幼馴染・遥がいた。そして、和哉は遥に片思いをしていた。
色黒でボーイッシュな外見だった千穂は、体が細く、肌は白く、整った顔をしていた遥を見た時に「私は永遠にこの子みたいにはなれない」ことに気づく。
それから千穂は、和哉への片思いを隠し、遥に憧れを抱いたまま、3人で仲良く高校生活を過ごすことになる。
夏休みに入る少し前に、3人は海に遊びに行くことになった。いつもより嬉しそうな顔を見せる遥を見て、今度は3人でお祭りに行こうと千穂は話す。
ところが、その日を最後に、遥と一切連絡が取れなくなってしまった。
夏休み明けの教室に、遥の姿はなかった。クラスの担任曰く、遥は高校を退学したのだという。何も知らされていなかった千穂と和哉は衝撃を受ける。
その1ヶ月後、クラスの担任から、遥が亡くなったことを伝えられる……。
千穂は遥にとって他人である
私事だが、中学3年生の時に同学年の子が病気で亡くなり、学校帰りにお葬式に行った経験がある。
その子が病気だったことも、入院していたことも知らなかった。突然「同級生が亡くなった」事実だけ伝えられ、会場の遺影を見ながら、同じ年しか生きてない子が死んだ、ということに強いショックを受けたのを覚えている。
本作でも、突然遥が死んだことを知らされた千穂が、実感のわかないまま葬式に行く場面がある。そこでは、親友でありながらも、最後まで遥に寄り添うことができなかった、「他人」としての千穂の立場が描かれていた。
入院先のお見舞いも、病室で遥の心電図が0になるまで見守ることもできず、あっけなく遥は死んでしまう。千穂は確かに遥が大好きだったのに、遥ときちんとお別れできなかった虚しさや無力感が、残酷に現れる。
誰かが死ぬことはドラマチックなものではなく、淡々と過ぎ去ってしまうものなのだということを見せつけられるような場面だった。
千穂と和哉の間にある溝
遥が死んだあとも、物語は続く。そこで、千穂と和哉の間にある心の溝が明らかになる。
千穂は、遥たちと出会ってまだ4ヶ月も経っていない。だが和哉は、遥と幼少期の頃からずっと付き合いがある。その差を埋めるのは難しかった。
最終章にて、和哉が遥を一生引きずるきっかけになった「遥が死ぬ1ヶ月前」の出来事が描かれる。
和哉には「遥が死ぬ1ヶ月前」の苦い思い出、一方何も知らない千穂には、3人で遊んだ時のきれいな思い出がそのまま残った。2人に残った思い出の差と、一生続いてしまうだろう和哉の後悔が、なんともいえない後味の悪さを生む。
「あいつの分まで生きよう」。この言葉は軽々しく使えるものではない。
誰かが死ぬということは、感動ドラマやお涙頂戴劇ではない。驚くほどあっけなく過ぎるものであるし、故人にとらわれ続けて現実をうまく生きられない人も出てくる。
繰り返し書くが、この物語は後味が悪い。「感動死ネタ」に飽きた方にはぜひ読んでいただいて、悶々としてほしいと思う。
『女の子が死ぬ話/柳本光晴 小学館』