私たちは性にふりまわされている『荒ぶる季節の乙女どもよ。』

レビュー

子供のいる親を見ると「セックスしたんだな」とつい考えてしまい、思春期に悶え苦しんだ人、多いと思う。
 
漫画『荒ぶる季節の乙女どもよ。』は、文芸部に所属する5人の少女が、性を理解できず苦しみ続ける様子を描いた群像劇だ。原作は『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』などで知られる岡田麿里。

 

荒ぶる季節の乙女どもよ。
©Mari Okada・Nao Emoto/講談社
 
5人が読書会でぶつかった壁は、文学の性描写。潔癖な彼女たち、拒否反応がありつつも「人間を語る上では重要」だと考えて、必死に立ち向かい始める。「セックス」という語を文学的にしようと話し合い結果「えすいばつ」と命名。どう性に向き合うかを論じ合うのだった。
 
…何か論点ズレてるよ!? とはいえ彼女たちには一大事。1人ずつ悩みを追ってみよう。
 

えっちなことばっかり連想して苦しむ子

 
小野寺和紗(おのでら・かずさ)は、目に入るもの全て性的に見えるようになって苦悩中。ボーリングの玉に指を入れるだけで赤面するほど。
 
自分たちには関係ない、なんて思っていたら、幼馴染の男子・泉が自慰行為しているのを偶然目撃。もうセックスできる身体なのを知って、心がざわつく。「性にふりまわされたくないよ…!!
 
泉のことが好きだと気づいてからも、性と恋愛が結びつかなくて頭がぐちゃぐちゃに。「私が「性」と「愛」を一緒くたに考えてるからで なのに性的なことを考えたくないっていうのは 矛盾してるかもしれなくて考えまくる和紗のモノローグは、絶賛迷走中。

 
文芸部では、暴走してこんなことも。間違いとは言わないけど、全てはちょっと行き過ぎたかなー。自分も友達も泉も、それぞれの性を持っている、と飲み込めるまではもうちょっと時間がかかりそう。
 

男子を好きになる感覚が全くピンと来ない子

 
和紗の大親友である須藤百々子(すどう・ももこ)は「女子は男子を好きになる」というのが全く飲み込めず、困惑し続けている子だ。
 

 
同じ塾の杉本という少年が近づいてきた時、最初から距離を置いた彼女。とりあえず仲良くなろうとしては見たものの、彼の「おごるよ」ムーブやしつこいLINEに辟易。普段おとなしい彼女もつい「きめえ」
 
世界はなぜか、女子と男子が恋愛して惹かれ合って触れ合うのが「当たり前」みたいになっている。彼女が首を傾げているのは、恋愛以前の性差の感覚。これは、恋愛をしたらすぐ変わる、というものではなさそうだ。
 

ド潔癖だったけれども恋をして変わってしまった子

 
文芸部で一番潔癖だった曾根崎り香(そねざき・りか)。性的な話をする男女を蔑み、高尚(と本人は思っている)な純文学に浸る。「セックス」の呼び名を変えようと言い出したのも彼女。暴走しがちなコミカルなキャラクターだ。
 
周囲からブスだと言われていた彼女。しかし後ろの席の少年・天城に「可愛い」と言われてから、彼女の生活はガラッと変わる。
 
髪を切り、メガネを外し、見た目に気を使った途端、みんなから美人だと言われるように。天城のアプローチを受けて、奥手だった彼女も恋に落ちてしまう。

 
文芸部で一番恋愛へのヘイトが高かったのに、一番最初に男子とお付き合いを始めることになる、という大逆転。天城からのLINEにニヤニヤする様子はまるで別人。
 
「好きな人できると世界って変わって見える」というクラスメイトの発言に、かつての彼女は「傲慢」「思考停止」だと思っていた。でも今は「……わかるー…」
問題は彼女が、お付き合いを誰にも言えずにいること。かつての恋愛拒絶の根は深い。乗り越える策を考えているようだが、果たして?
 

性体験を知らないことを悩んでいる子

 
本郷ひと葉(ほんごう・ひとは)は作家志望の女の子。編集もついており、デビューまで後少し……というところで、壁にあたる。自分の書く性的描写が、薄い。編集曰く「童貞のおっさんの妄想」。焦るひと葉。「セックスを知らないで文学は語れない
彼女が頼ったのは、ネットの2ショットチャット。エロ会話を重ねるうちに、勉強のためにチャットの相手と実際に「してみたい」と願い始める。性欲は皆無。

 
行動力があるだけに、危なっかしさナンバーワン。男性との接触で、彼女の中に本当の性欲と恋愛が急に芽生える様子はかなりセクシャルなので、是非読んでみて欲しい。そもそも相手が誰なのかと言うと…そこは重大なネタバレなので内緒です。
 

かつて「少女」だと偶像化されていた子

 
誰もが振り向く美少女・菅原新菜(すがわら・にいな)。彼女が文芸部で、死ぬまでにしたいこととしてあげたのが「セックス」だった。「私もうすぐ死にそうなので」
意味深な発言ばかりの新菜。大人への成長途中で苦しんでいる和紗らには、彼女の発言は刺激が少々強すぎる。

 
彼女は元子供劇団員で、演出家の男性・三枝に高く評価されていた。彼曰く、新菜は「儚げで危うげな少女然としたルックス」が魅力らしい。それは同時に「君が少女でなくなったら魅力はもう自分(三枝)に届くことはない」ということでもある。
 
いっそ彼が少女に手を出すような男だったら、まだわかりやすかった。ところが三枝は、少女は手を出した時に「少女性」を失われ、手が届かなくなってしまうことである、と考えていた。少女性しか愛せない自分は、成長した女性たちに置いていかれればいい、という面倒くさいロジックのロリコンだったから困る。おかげですっかり新菜は「少女」の語の呪いにかかってしまった。
 
「死ぬ」というのは、三枝が言っていた、新菜の中にある「少女性」が女性として成長することによって失われる、という意味。三枝が考えていた「新菜は少女であるからこそ美しい」という呪縛。解放されるために必要なのは、わかりやすい大人の体験としての「セックス」だけではなさそうだ。
 
性と恋に苦しむシリアスな作品だ。ただし大人の読者なら、各々の迷走の滑稽さを見て、微笑ましく感じる部分が多いだろう。苦悩を通過したら「なんてことない」と理解できるからだ。ひと葉のように、「セックスを知らない自分は足りない」と焦るのは、ありがちな経験。それは大袈裟だと、性の嵐の時期を通過すれば気づけるもの。
 
大人の読者が彼女たちの迷走を見てニヤニヤできるように、彼女たちも成長すればこの「荒ぶり」の黒歴史を笑えるようになるのだろう。でも思春期の渦の最中では全く制御できないから、性は本当に厄介だ。
 
荒ぶる季節の乙女どもよ。/岡田麿里 絵本奈央 講談社